■■青春怪談('55日本)

監督:市川崑
主演:三橋達也北原三枝
裕次郎と共演以前の北原三枝は、ずいぶんイメージ違う感じ(中性的というか)。これは市川崑が初めて日活で撮った作品。獅子文六新聞小説の原作。半世紀前の渋谷と浅草の街並みが、おもしろい。このタイトルはちょっと意味不明。新東宝と日活で同時に映画化される(競作)という試みは、当時の映画界の余裕の表れだろう。

ヒヒコレエイガのレヴューから引用。

この作品の素晴らしさは、1に和田夏十のシナリオ、2に轟夕紀子の怪演、3に市川崑の演出にある。 なんと言っても素晴らしいのは和田夏十のシナリオだ。この作品には千春と慎一の関係、鉄也と蝶子の関係、千春とシンデの関係とバレー、慎一の事業とそれにまつわる女たちとの関係、の4つがプロットとして絡んでくる。若い男女がその親同士を再婚させようという話は珍しくなく、そういう場合はそれを画策している若い男女のほうが結婚して大団円となるわけだが、この作品はそのような単純化はなされず、若いふたりの関係も親同士の関係も独特な面白さがある。
  若いふたりのほうはといえば、バレリーナの千春(北原三枝)は男っぽいちゃきちゃきとした性格で、バレー学校の後輩のシンデ(芦川いづみ)に惚れられている。今で言えばレズビアンの関係ということになりそうだが、当時ではそういう発想ではなく中世的な愛情として描かれている。慎一は非常にしっかりとした性格で男前だが、女にあまり興味が内容で積極的にモーションをかけてくる女性達をまるで無視して、事業家として成功することと母親の世話だ家に力を注ぐ。
  千春の父の鉄也(山村聡)は家でただただ時計の修理をしている。中盤でわかるのだが、兄の会社の役員に名を連ねてお金だけをもらっているという。慎一の母の蝶子はちょっとバカなんじゃないかと思うくらいの天真爛漫な女性で、こちらも夫が経営していた病院などからの家賃で暮らせている。
  この要素だけを見れば、話はテンポよく進んでいきそうなものなのだが、慎一の事業がうまくいかなかったり、鉄也が強情だったり、いろいろなことがあって物語りは曲がりくねりながら予断を許さない展開を見せるのだ。このあたりがこのシナリオの非常にうまいところだ。決して大団円を予想させず、若いもの同士の関係も、親同士の関係もどうなるかわからず、周りの人たちがそこに影響を与えもするのだ。
  和田夏十はそのようにしてさまざまな仕掛けを織り込んで楽しい物語を作るのが本当にうまい。

 その物語の中でも特に面白いのが轟夕紀子だ。ちょっと頭の弱い妙齢の婦人というなかなかない役どころを見事に演じている。見た目はおばさんでありながら心は十代、肉のついてしまった体をゆすりながらも恋する乙女を演じている。上目遣いの表情や、惚れた男に嫌われたと思って部屋に引きこもる姿など、本当に力いっぱいの演技という感じだ。若い男女ではなく、中年の男女のほうにこういう恋愛を演じさせるというのがこのシナリオの素晴らしいところでもあるのだけれど、それを見事に演じた轟夕紀子の存在あってこそだとも思う。
  轟夕紀子は宝塚のトップスターで鳴り物入りで映画界に入ったが、目の病気や結婚、離婚などの私生活の不運もあって、結局脇役を中心に女優としての生活を送った。戦後30代のころには多くのコメディに出演、40歳前後からは『洲崎パラダイス』や裕次郎作品などで存在感を示している。そう考えるとこの作品は彼女が脇役として大成する転機となった作品なのかもしれないと思う。しかし1967年に49歳の若さで亡くなってしまい、最後まで不運だった。そんな轟夕紀子の魅力が十分に楽しめるのがこの作品だ。

 市川崑の演出は、非常にうまいのだが、シナリオのよさや出演陣のうまさの陰に隠れて、目立たないものになっている。見事な演出というよりは、いい素材をうまくまとめるための調整役という感じで、それはそれで彼らしい立ち方だと思う。そんな市川崑が存在感を示しているのが音楽の使い方ではないかと思う。全体的にそれほど音楽を使っているわけではないのだが、ここぞという場面でそのシーンの意味を明確にするような音楽を使い、シナリオが観客にすっと受け入れられるように構成している。あまり目立たない要素ではあるが、これがあるとないとではわかりやすさが全然違ってくる。
  やはり和田夏十市川崑のコンビは稀代の映画作家だ。この作品が市川崑の作品群の中で埋もれてしまっているように見えるのは、短い日活時代の作品だからだろう(『こころ』『ビルマの竪琴』とあわせて3作品しか監督していない)。DVD化もされていないのでなかなか見る機会もないが、こういう軽い作品でこれだけ面白い作品というのはなかなかないので、ぜひDVD化もして欲しい。