■■夕陽に立つ保安官('69米)

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監督:バート・ケネディ
主演:ジェームズ・ガーナー、ジョーン・ハケット、ウォルター・ブレナンブルース・ダーン
コメディウエスタンというか、ギャグ満載の西部劇を作ってるケネディの、代表作といえば、これだろう。ここではインディアンは全く登場せず、「真昼の決闘」('52)を代表とする「孤高の保安官vsならず者」の図式を持つ西部劇を徹底的に茶化している。
ジョーン・ハケットのコメディエンヌぶりもいいが、ジャック・イーラムのとぼけた味わいも捨てがたいのだ。このコメディ・ウエスタン云々に関しては、

姉妹編「地平線から来た男」を含めた、脱西部劇的コメディ・ウエスタン論は入間洋さんのHPにくわしいが、一部を引用。

主人公のにわか保安官を演じているのは、ジェームズ・ガーナーです。彼は、確かに「墓石と決闘」('67)ではワイアット・アープを演じていたとはいえ、明らかに「真昼の決闘」のゲーリー・クーパージョン・ウェインとは違い、普通ならば西部劇の主人公を演ずるヒーロータイプではありません。「夕陽に立つ保安官」では、放り投げたコインを拳銃で射抜いたり、悪漢を一撃のもとに早撃ちでしとめるガンプレイを見せてはくれますが、従来の西部劇ヒーローのシリアスさはどこにもありません。この傾向は、「夕陽に立つ保安官」の続編である「地平線から来た男」('71)ではさらに拍車がかかり、そこではガーナーは、名うての札付きガンマンの名前を借りる(しかも、ジャック・イーラム演ずる助手にその名をかぶせてしまいます)見栄張りの保安官を演じています。細かい点ですが、「夕陽に立つ保安官」で留意しておくべきことの1つは、ガーナー演ずるキャラクターは、オーストラリアに新たなフロンティアを求める途中で、この映画の舞台となる田舎町に立ち寄ったという設定になっていることです。つまり、アメリカからフロンティアが消滅しつつあった時代が舞台であることが、それによって暗示的に示されているということです。彼は、西部劇お得意の野郎どもの大立ち回りが始まっても、一人で悠然とメシを食っています。そのガーナーの助手を演じているのが、ジャック・イーラムです。イーラムと云えば、セルジオ・レオーネが前年に監督した、マカロニウエスタンならぬマカロニ風西部劇「ウエスタン」('68)の冒頭の顔面に止まったハエを顔面の筋肉の動きで追い払おうとするシーンで強烈な印象を残していますが、いかつい顔をして従来の西部劇であれば悪役を演じているはずなのに、「夕陽に立つ保安官」及び「地平線から来た男」では、登場する人物の中でも最もコミックなパフォーマンスを繰り広げており、しかも漫才に喩えればボケにあたる役を勤めています。また、「真昼の決闘」の冒頭でゲーリー・クーパー演ずる保安官が、圧倒的な敵を前にして逃げるようにして町を去っていきながら、やがて気を変えて町に戻ってくるように、「夕陽に立つ保安官」でも、ガーナーキャラクターは圧倒的な敵を前にして町を立ち去ろうとしつつも、結局踏みとどまります。しかし、その理由がふるっていて、ジョーン・ハケット演ずる娘が「波風を立てずに町を去っていく態度は実に慎重で大人だ(mature)」と評するのを聞いて、臆病者と評されたと解釈するからです。確かに、勇敢/臆病という対立項も、かつての西部劇において重要なモラル要素として機能していたことに相違ありませんが、「夕陽に立つ保安官」の場合には勇敢/臆病が語られるコンテクストが従来の西部劇とはまるで違うのです。すなわち、モラルコンテクストを全く抜きにして、単なるワードプレイとして勇敢/臆病の対立項が口に出されるのです。「真昼の決闘」で主人公が町に留まる決心をするのは、彼の持つ正義感という強烈なモラルコンテクストがあったればこそであったのに対して、「夕陽に立つ保安官」では単なるワードプレイとして勇敢や臆病について語られるだけなのですね。ここには、「真昼の決闘」などのかつての西部劇を茶化す意図すら感ぜられるのです。また「真昼の決闘」では、主人公と悪漢四人の最後の決闘が大きなクライマックスを構成しますが(何せラストの決闘シーンに至るまで撃ち合いシーンは全くありません)、「夕陽に立つ保安官」の最後の決闘は、一種のアンチクライマックスですらあります。何せ、ほとんど誰も死なないのです。唯一、ジョーン・ハケット演ずるくだんの元気娘が悪漢を二人ほど打ち倒しますが、それを見たガーナーキャラクターが彼女の出しゃばりをたしなめる程なのです。その後のシーンで、ガーナーキャラクターが、「ちょっとタイム」と言いながら大通りを渡るとその間悪漢どもも本当に射撃を中止します。要するに、従来の西部劇のクライマックスシーンをパロっているのですね。そもそも、この悪漢どもというのが、捕まった牢屋の窓に鉄格子が嵌められていなくとも脱走すらしないのです。それから、ジョーン・ハケット演ずるケッタイで好戦的な娘(続編の「地平線から来た男」ではこの役回りをスザンヌ・プレシェットが演じていました)は、「真昼の決闘」のグレース・ケリーのアンチテーゼのようなキャラクターです。「真昼の決闘」でグレース・ケリーが演ずるクエーカー教徒の娘は、最後には、どこかの国の懐かしの歌謡曲をもじれば、走り始めた汽車を一人飛び降りて、旦那のもとに駆けつけ、のみならず自身クエーカー教徒であるにも関わらず背中を向けていた悪漢一人を血祭りにあげるとはいえ、基本的には平和主義者であり、正義感に燃えた、というよりも彼女には正義感に取り憑かれているとしかとても思えない新婚の旦那をなんとかして町から立ち去らせようとし、それが不可能であることが分かると一人でずらがろうとさえします。これに対して、「夕陽に立つ保安官」のジョーン・ハケットキャラクターは町で一番好戦的であり、前述の通り、クライマックスのシーンでは嬉々としてライフルをぶっ放し、悪漢二人をあの世に送ります。余談ですが、このモーレツ娘のオヤジを演じているのが独特のスピーチパターンを持つハリー・モーガンであり、彼は「真昼の決闘」では臆病風に吹かれた町の住人の一人を演じていました(「真昼の決闘」当時はヘンリー・モーガンの名で出演していましたが)。かくして、「夕陽に立つ保安官」の全編に渡って、従来の西部劇作品が当然のものとして扱ってきた図式を嘲笑うかのようなシーンが散りばめられているのです。単に西部劇の枠組みをそのまま残してその中味としてコメディを盛り込んだコメディ西部劇というのではなく、西部劇の枠組みそのものを笑いのめそうとしたのが「夕陽に立つ保安官」という作品だったのです。そして、そのことが可能になったのは、西部開拓史時代の同時代記憶が消失して、西部劇が西部劇として純粋に成立することが最早不可能になりつつあったからであるというのが当レビューの最終的な結論なのです。

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